農業問題・・・「とも補償」調整・・・>

ヤマブキと梨畑の梨の花です


<農業問題・・・「とも補償」の調整(一)・・・> 


民主党が政権をとって、生産調整の主体がJAから行政へと移った。今までは、町の水田農業推進協議会という町、JA他農業関係団体や関係者で構成された生産調整を推進する組織があって、その会長はJAの組合長が就任していた。


ところが、行政が主体となったことにより会長と事務局は町へと移り、その推進体制も傍から見れば変わったといえる。


 民主党の戸別所得補償制度そのものが今までの産地作り交付金を原則廃止したため、激減緩和措置はあるがその意義が薄れてきたといっても過言ではない。当町の場合それが典型的に現れてきたのは全町を対象とした「とも補償制度」であった。


 当町での「とも補償制度」は1987年の水田農業確立対策から初まったといってよい。同対策では「地域営農加算」制度という今の産地作り交付金のような制度で、一定の要件を示しながら、それを満たした場合その対象面積に対して一定額が交付されるのであった。


但し、地域ごとに転作面積をクリアしているというハードルが要件としてあった。稲作農家一人ひとりが転作の目標面積を達成していなくても地域全体で達成すればいいということである。


そうすれば、転作を多く消化した農家と少なく消化した農家との間で不公平感が生じる。それを金銭のやり取りで公平化したのがとも補償制度である。


当初は個人ごとに相対で行なっていたが、それでは農家の負担がすごいのとJAが農家組合員の転作実態を把握できない状況があったので、転作の受委託をJAで請け負ったのである。これには当初大変な努力が必要であった。


要するに受託面積と委託面積をほぼ同じにするというテクニックが必要となった。農家組合員から転作実施計画書を提出してもらって、受託と委託の面積を集計し調整するのである。委託の面積が多い場合、転作面積を探さなければならない。


転作可能な農家に夜出向いて何度も何度もお願いしたこともあった。また、受託面積が多い場合は、転作を止めて稲作に切換えてくれとお願いしに回った。こういう仕事は、その農家の営農実態をつぶさに把握し、かつ信頼関係がなければできない仕事であった。


JAでなければできない仕事である。当時はパソコンもなかったので手作業での計算であった。今にしてみれば良くやったと思う。


 しかし、それも数年すれば個々の農家の転作場所が読めるようになり、そんなに苦にはならなくなってきた。こんな苦労をした甲斐もあって、当時の団地化率(地区の水田総面積における転作団地の割合)は全県のトップクラスを維持していた。10a当りの平均転作奨励金もトップクラスであった。


 隣村は大潟村。当時は「青刈り騒動」で大変な時期であったが、過剰作付けはこのようなシステムを構築したおかげでなかった。