<ブログ雑記・・・送別会(二)・・・>

青森の西海岸から白神山地の望みました

<ブログ雑記・・・送別会(二)・・・>


 その後は乾杯。小中高と同じ学校で同い年。彼は部長、私はヒラ・・・かれも労組の経験がある。彼が委員長の時、ストライキを打ったことがあった。そのときの思い出とそして、その後の私との考え方の相違で彼は労組を脱退した。


今は誰が見ても私が最も「急進派」といわれているが(自分では決してそうは思っていない、ただ筋を通しているだけだと思っている)しかし、その当時は彼のほうが私より「急進派」であった。20数年前のことである。それに彼は総務畑だったので労基法にも明るい。だから、残業の請求を当時1分ごとにしていた。


「17時から17時1分までの1分の残業と」・・・確かに労基法ではこの通りである。私だって1分の残業って上げたことはないし、その度胸もない。あの時代はそれでよかったのか?今の時代では考えられないことである。


そのあと昔の仲間が注ぎに回ってきた。「全くお前の言うとおりだ・・・俺もいつ辞表を出すかタイミングを伺っている。辞表を書くのって大変だよなあ〜〜妻や子供の顔がうかんでくるんだもの・・・・」


 彼も前から辞める辞めないと飲むたび話していた。その彼がなかなか出せない心情を吐露した。これがホントなのか酒の勢いなのかはわからない。


 「残るほうがよっぽど大変だ・・・」という言葉には実感がこもっていた。数人が集まってきて、残る立場のコメントが酒の勢いも加わって止まらなくなった。そして最後には農協はどうなるんだろう?で締められた。私の話は「大成功」か?


 続いて女性たちも来た。LAとして1年間一緒に「仁義無き闘い」を戦い抜いた女性たちはもちろん、私と10年近く同じ仕事をした彼女も来た。当時は20代後半で今は40になったか?あの頃は精一杯仕事が出きた。忙しかった、しかし楽しかった。そして成果も上がった。ちょうど、ウインドウズ95が出たころだった。



転作の面積計算は個別そして圃場一筆ごとの計算であった。その膨大な量の計算は手計算ではあまりに効率悪くて、転作の事業でパソコンや専用プリンターを買った。当時100万もした。それをヒラの私の判断でできた。あの頃の計算のソフトはロータスだったと思う。


二人で悪戦苦闘した。彼女は「あなたの判断でpCを導入して、私も精通したし、だからこうして今ここにいられる、あなたのおかげよ・・・」思いがけない言葉にうれしかった。



 そんな話ばっかりだから、飲んでもほとんど酔わない。6時半にはじまった送別会は9時に中折れ、その後もまだまだ残っている。私が「主役」だから途中で帰るわけにもいかない・・・。そうしている内に若い連中が数名になってみんな私のテーブルにきた。


「54にもなって、原木椎茸に挑戦するなんてすごいっスね・・・さすがだ・・・」

おせいじ半分でもうれしい。挑戦には間違いない。それと共に「あなたがいなくなった後の労組はどうするんだ・・・」労組員でもない職員の言葉だが、腹の中では「労組員でないお前には言われたくない・・・」と思ったが、みんなが心配していることには感謝するしかない。


「あなたが入ってくれればもっとよくなると思うんだが」と返事したが「みんなが入れば喜んで入るんだけど、そういう雰囲気ではない・・・」


このような話をしながら、若い連中はどうして私があれだけできるのか、すごい関心があるようであった。私は「ただ、筋を通してだけだ・・・」とさらっと流したが、私がやってきたことは間違いではなかったと再度確認したしだいである。