<農業問題・・・・「日本有機農業学会」(2)・・・>

雨の梅もどき

<農業問題・・・・「日本有機農業学会」(2)・・・>



 現在は資本主義社会だから、すべての商品には「経済原理」が働いている。それを無視しては「事業」としては成立しない。


協同組合運動とはその事業の「アンチ」としてロバートオーエンの時代から成立していた経過がある。「事業」とするなら収益を追及しなければならない。最大の収益を追求してそれを再度資本として投資し、それにより投資以上の収益を追及する・・・・。


これが資本主義の原則である。「事業」とするならヨーカドーやイオンと対等に競争するしかない。


 「運動」であっても「事業」と競争しなければならない。しかし、「事業」対「事業」の競争と「事業」対「運動」の競争ではその競争の質が全く異なる。「事業」対「事業」ではどちらが「商品」として有効かである。


「事業」対「運動」では「商品」対「脱商品」の闘いであって、「脱商品」には商品にないプラスαの「付加価値」がつく。その「付加価値」には様々なものがある。有機だったり、ふるさと産品だったり、思い入れだったり・・・その付加価値には一般性はない。


であるから、「脱商品」は価格だけを比べたら、同一品目でも「商品」よりは高くなる。その付加価値のついた高いものを販売するのだから「運動」なのである。「運動」でなければまた売れないのである。


 この点に関しては様々な意見があると思うが、簡単にまとめた私の考えである。


 要するに、有機農業産品は一時的なブームでは「差別化商品」として売れたのだが、それが運動として確立されなければブームに終わってしまう可能性が強い。有機農業産品にそれが再生産できるような価格がつかないと、再生産されない。赤字をしてまで生産するということは現代の資本主義社会が許さないからである



 有機農業は「勇気農業」である、と星寛治氏は喝破した。やってみないと「勇気農業」であることはわからない。消費者がはしゃぐようなものではない。


 彼の場合は「反近代農法」からはじまりイデオロギー的はバックホーンが確立されていた。運動としてはじまった。60年代から70年代の「公害」などが彼の主張を押し上げた。そういう意味では時代の寵児といっても良い。


 生協も消費者運動からはじまり、「共同購入」が運動として形成され「成長」した。日本の高度成長とともにである。しかし、高度成長が終わると「共同購入」も衰退した。「共同購入」は手間隙がかかる。安全安心のための消費者知識を共同班で学習しなくなった。


人つくりがおろそかになった。労組でいう活動家を作らないと運動だから進展しない。しかし、生協もその組織を守るためには赤字にはできない。だから、売上げは至上となる。売れるものなら何でも・・・・となる。有機とか何とかには構ってはいられない・・・と。

 しかし、それでも頑張っている生協もある。次ぎにその生協を紹介したい。