<農業問題・・・生協の変質・・・>

山林内に咲くユウレイダケこと銀竜草で

<農業問題・・・生協の変質・・・>


 生協といえば、消費者運動の牽引車・・・と思っていたがそうでもなくなったらしい。08年6月23日の日本農業新聞は、6月12日、13日に開催された日本生協連の総会の議論を論評している。


 要するに、「中国ギョーザ事件」についての総括に会員間で結構「温度差」があるらしい。このブログでもその件についてはアップしたことはあったが実際の問題として議論が起こっている。生協運動が岐路に立っているということであろう。


 生協は、日本の高度成長にのって販売額を伸ばしてきた。いわゆる低価格路線で「安くていい商品」をキャッチフレーズに組合員も拡大してきた。それは組合員の組織班を通じての「共同購入」が大きな力を発揮してきたからだ。


しかしながら、規模が拡大するにつれて、共同購入から店舗販売へとスタンスを変え、大手のスーパーと対等に競争する姿勢に変わってきた。そうなると、どうしても売上げ主義に陥らざるを得なくなってくる。組織班、共同購入班を通じての「消費者運動」の啓蒙がなおざりにんり、よりやすいもの・・・という展開になってきた。その延長線上に、今回の「中国ギョーザ事件」がある。


 農業新聞が紹介した「組合員は生協で単に商品を買っているのではない。商品を通じて食のあり方を考えている。出来るだけ輸入に頼らない商品政策に転換するべきである」という声は、生協運動を重視する原則的な意見であるが、生協連の執行部は「低価格路線を放棄しない」と言明している。その原則的な意見は少数派だということであろう。


 いわゆる、生協でも経営主義が跋扈しているということらしい。生協とて農協と同じ協同組合で、理念等は同じといってよい。しかし、資本主義の中では亜流である。


それは、資本主義内の様々な矛盾に対して、そのアンチとして発足してきた協同組合運動が、アンチゆえにその存在価値を生み出してきたのであるが、それがなくなったら、存在意義自体なくなる。欧州の協同組合が衰退した原因と同じである。


 協同組合の運営は「民主的運営」が原則である。しかし、その手続きに時間がかかり意思決定が遅れる。それがスーパーなどとの競争に桎梏となる。それを補うのが、「消費者運動」という運動の質なのであるが、それが軽視されてきた。軽視というよりはコスト的に採算が合わないということであろう。


このような生協という組織の構造的な問題がある故に、意思決定の速さを武器とする資本主義の企業との競争には勝てないと現実を無視するわけには行かないと思うのであるが・・・。


 今回の「中国ギョーザ事件」は採算重視の経営主義路線の典型といってよかろう。それが、安心、安全、安価を求める生協運動の理念と反することはいうまでもない。


しかしながら、売上主義による低価格路線を求める経営陣はその「保身主義」的な発想が、それから逸脱はできないということだろう。その意味では、生協は変質しつつある。
 
その変質の一番のメルクマールになるのは、共同購入が売上げに対してどれくらいの比率を占めるかである、といわれている。


私はそれよりも、生協運動に直接携わる現場の職員が生協の理念をどれだけ理解しているかを問いたい。現場の職員が「生協事業」ではなくて「生協運動」であると実感していれば、生協の発展性は見えてくるのであるが、目先の数字の獲得に勢力を注いでいると聞いている。


こんな状態だったら、生協も農協と同じく将来はない。