<読書・・・・日本の食と農 その二・・・>

南天にゆきがつもりました。

<読書・・・・日本の食と農 その二・・・>


前回は、「消費者」という怪物についての評価であった。それについては私もほぼ同感であったし、得るものも多かった。


 しかし、今回は、農協問題についてである。結論からすれば、この農協の捕らえ方については私と相当距離がある。距離があるというより、相反するといった方が適当かもしれない。


 氏の主張の最初は、農協の食品偽装表示などを初めとした、不祥事の問題である。これについては弁解の余地はない。それから、「員外利用」の問題、20%以上の員外利用は先に朝日新聞でも一面トップとして問題になった。(この朝日の取り上げ方には意図的なものを感じるが・・・)氏もこのことを問題にしている。



 そして、「崩壊しつつある伝統的農村集落構造を保護し、農村部随一の票田の維持に努める」とJA機能を大胆に要約している。問題はこれを肯定的にとらえるのか、否定的にとらえるかである。氏は明らかに「保旧派」的に否定的にとらえる。


 そして、JAは法令違反の常習犯だという。確かに「常習犯」的な側面もあるかもしれない。しかし、その「常習犯」の内容をきちっとは把握していない。


破らざるを得ない食管法時代からの建前の論で農家を縛り付けてきた農政に最大の問題があるのを理解しようとしない。ヤミ小作とかヤミ米、現状の農地制度などではきりがない。それをお互いに許しあっているのは「緊張感がないから」だという。要するに慣れあっているということだろう。


 そして、零細農家と行政と自民党政治の癒着、馴れ合いが今の低生産性の日本の農業を生んだといっているように思われる。要するに効率的な、産業として自立できる日本の農業を大規模農家を中心に作らなければならないのに、JAはその最先端にたって、零細農家を守り近代化を拒んでいる、というのである。



 私から言わせれば、農協というのは戦後の自作農主義で作られた小規模農家を中心に自らの生活を守るために、「小規模農家」を中心に作られたものといっても過言ではない。農協はもともと大規模農家を想定して作られたものではない。


それに氏は小規模農家が農業の非経済的価値、環境保全機能を守っていることに気が付いていない。現場を見てみれば、間違いなく、「大規模」より「小規模」に環境保全機能を担っているのである。


それに、農協は農家の生活を守るためにある、ということを忘れてはならない。運動体でもある。そのためには、誤解を恐れずに言うならば、政党のよしあしはあるものの政治と関係を持つのは当然である。それは権利といえる。


 そして、「伝統的な集落制度」についても矛先を向けている。これはお門違いもはなはだしい。私から言わせれば、氏の「伝統的な集落制度」とは、共同体であり、その「共同体規制」が有効に働いて今日までの稲作にあった農業政策が形作られてきたのであった。

 私はこれからも食糧の自給や環境保全機能もこの共同体規制を有効に機能させて農業を守っていかなければならないと考えている。


 大規模農家は、環境保全機能もすべて、コストと計算してしまうし、そうすることが大規模としての生きる道・・・といえる。大規模が大規模だけでやっていこうとすれば、必ず、軋轢が生じる。小規模と共生するということが必要条件なのである。


 最後に氏は、「独立系農協」を提案している。この情報化時代に農協の「地区」という縄張りを外して、農家が農協を選べるように、ということらしい。なんか財界の意向に近づいてきている。


 現状の農協には私も相当な批判を持っているが、それは農家組合員が農協の主人公になっていない、ということから発する批判である。しかし、氏の批判は、非効率な農業の生産性を非難している。市場原理主義派の批判との違いがあまり感じられなかったのは私だけだろうか。