<労組活動・・・私の裁判闘争1・・・>

hatakeyama10262007-07-31


 <労組活動・・・私の裁判闘争・・・>

 今回から、ハンドルネームを「hatakeyama1026」から、「農協労組活動家の万年係長の日誌」と改名しました。約一年3ヶ月このブログを続けて、常連者もほぼ私の経歴は把握してきたと考えたからです。この期に及んで仮面のままでいる必要もないと思ったからです。そういう意味で、今回から数回、私の3年前の裁判闘争の記録とは行きませんが(記録となると相当長くなるので・・・)裁判で勝訴した時の私の拙文をアップしたいと思います。わからないところがありましたら、コメントで質問してください。出来る限り、説明します。


4年間の裁判を闘って


04年3月10日、13時15分。仙台高裁秋田支部、裁判長の唇を真剣に見つめました。負けであれば、「控訴を棄却する」と――。それ以外なら勝ちのパターン。裁判長はか細い声でその発音の感じからチョッと違うぞ。そして、「損害賠償金・・・」云々が聞き取れました。「もしかして勝ったのか」と頭の中でつぶき、周囲を見回すと――、勝ったらしい・・・・。念願の勝訴の瞬間でした



 昨年の3月26日の地裁での完全敗北の判決を受けてから、一年間。「絶対勝つ」「負けるはずがない」と仲間に訴えて臨んだ裁判が思ってもいなかった敗北に、高裁でも敗れたらもう職場にはいられないだろう、と悲壮感を持ちつつ、3月10日を迎えました。 



前日は、「完全勝訴」の夢を見て、そのことをこの裁判をもっとも支えてくれた仲村氏に話すと、縁起を担いで当日の昼食は「カツ丼」をご馳走してもらいました。


 思い起こせば、ことの発端は平成11年の年末要求。6回の団体交渉は、年末のぎりぎりまでに及びました。そして、「今年度だけは査定を認める」という妥協案を団交を一時中断して、本部の木村副委員長を交えて協議し、提出したのです。


しかし、経営者はこれさえ、拒否反応を示し、そのときふと、「これは裁判だな」と脳裏に浮かび、「最悪のコース」にならなければと思ったのですがその「最悪のコース」になってしまいました。


 一方的な年末一時金の査定には、どうしても認めることが出来ませんでした。11年1月1日の5農協の合併で、残業の未払い、職能給の一方的導入、そして不当労働行為と経営者は我が物顔で労働組合の存在を無視し続けました。


 これに対し分会は様々な手段で抵抗してきました。労基署への申告、職能給辞令の返還、そして、地労委への斡旋と救済申告・・・。その結果「労働条件は労使双方誠意を持って協議する」という11年9月の地労委斡旋案を双方が受諾しました。


 これは、実質的に私たちの「敗北的和解」でした。しかし、これからは、十分協議して労働条件を決められるのだろうと思ったのです。その舌の根も乾かないうちの11年の年末一時金の査定案でした。「これを認めたら、労組の存在意義そのものがなくなる」と12月下旬の全体集会で訴え、分会員からは、今の経営者の「悪口」、そして、大変な思いが意見として発露され、全体の意志で、徹底的に闘うことを申し合わせました。



 その後も、経営者は労組を無視し続けました。12年の6月には夏期の繁忙期の労働条件を自らの都合の良い条件で乗り切ろうとして、「職員協議会」(第二組合的なもの)をでっち上げ、労組の幹部を分会長が出席を拒否した会議に出席させようとして、不当労働行為を働きました。(これは、13年12月に秋田地労委が「不当労働行為」として救済命令を発布)


 05年4月には、私に対し、降格と昇給停止処分が発令されました。(これも今回の判決で「不当労働行為」として断罪された。)そして、14年10月には労組費のチェックオフの停止。(翌年に地労委からチェックオフを再開することで和解案が出され、和解)このような次々のそして、懲りない経営者は、そしてその悪質さにおいては全国でも稀、というか例を見ない事例だと思います。


 これらの一連の労組潰し攻撃は、経営者の実際には、経営者の思う通りに進んでいきました。労組員は当初の170名から現在は、28名へ激減。私の最も信頼の置いていた書記長は、イヤガラセやLAという仕事に矛盾を感じるようになり、平成14年7月に退職に追い込まれました。



 様々な飲み会では「畠山は(オーム真理教の)麻原か」と管理職から平気で言われ、11年1月浜口給油所長、12年3月八竜支店金融課長補佐、13年3月塙川給油所長、同年5月本店共済係、14年3月八竜支店LA、16年3月八竜営農センターと5年で6回の異動、この見せしめの嫌らせに職員全体に労組に加入すれば「損をする」というイメージが定着した。



 経営者側も「一人だけ言うことを聞かない奴がいる」と公言するようになりました。そして、チェックオフの中止により、これは私たちの力の弱さもあるのですが、労組費の滞納額が増加することにより、一度に集金する額が多くなり、その支払い困難を理由に脱退者が急増しました。


 毎日毎日「脱退届け」が届くようになり、出勤するのが気が重くて、そして情けなくて・・・。書記長の突然の退職とこのときの辛さは言葉にいい表すことは出来ません。思いがけない人が、そして、私をあんなに支持してくれた人までが・・・。
<つづく>

写真は、暗門二の滝です。