<お葬式6・・>

自宅のユキヤナギです

<お葬式6・・・>

そうこうしている内に葬式の日を迎える。例の席順と葬列の順序だが、本家筋の数人と事前に案を作っておいて、葬式の前日の夜中に父が沖縄から帰ってきたので、判断を仰いだ。


多少変更はあったがたいしたことはなかった。要するに考え方次第なのである。一般世間に通用する理屈ということなのである。それを基に葬列の順序も訂正する。他の分家たちにも報告したが、「父の一声」に逆らう人はいなかった。我ながら驚いた・・・。


葬式は坊さん主導で淡々と進行して言った。一時間ほどであったが、アグラでもさすがに足は痛くなる。お経が終われば、墓地への葬列である。約30分、その間に「お済会」のお膳を並べる。

仕出し屋が慣れた手つきで手伝おうとしても隙がない。一膳やく一万円、安くはない。これも「見栄」が大手を振るう。「香典に見合うお膳」とよく言われるが、狭い地域社会ではやむをえないのかもしれない。


しかしながら、この葬式というのを改善なり、改革する余地は相当あると感じる。まえにも述べたが、結婚式は若い人が主人公なので目新しさを求めてどんどん改革されていく。


「業者」もそれを売り物にして営業をかける。しかし、葬式は年寄りの行ないである。伝統、前例、慣習・・・等々変化のないことが求められる。時代の変化にマッチしない。営業をかける業者もいない。


私が感じるのは第一に供物の改善である。花輪や生花を供しても一週間かと持たない。おまけに花輪は墓地へ持っていってもゴミになって邪魔になるだけである。大きなものでなくて、そして、ずっと残るもの。例えば「掛け軸」とか「絵」。花輪が2万円前後だから、2万円の「掛け軸」なら相当いいものが仏前に飾れると思う。


第二に葬式自体の改善である。「葬式仏教」といわれるが、ただお経を唱えているだけでは・・・と誰もが思うと思う。坊さんたちの中にもそんな考えがあると聞いたことがある。


「変化」を付ければいいというわけではないが、参加者が「よかった」といわれる葬式は必要ではないかと思う。

今回お経を唱えたお坊さん4名のうち3名はまだ30代か40代の前半。どうして、彼らがこの「改革」を呼びかけないのか不思議でもある。われわれがそんなことを言えば間違いなく波風が立つが、お坊さんの発言力は間違いなく我々の何百倍もある。


遺言で、そんなことを書いておくという手もある。芸能人では「生前葬式」を行った人もいる。私の葬式はそのような改革をしたいと思うが、人間死ねばゴミになる。そのゴミのいうことよりも生きている人の「見栄」のほうが優先されるのが「世の道理」かもしれない。
<今回で終わります>