<山形県高畠町の有機農業について>

合鴨農法の田圃です。

有機農業をはじめたきっかけ


 高畠町では、昭和48年に高畠町有機農業研究会」が38名の仲間で設立されました。

1960〜70年にかけての青年団活動の高まりの中で、農政問題や地域問題がそのテーマとなり基本法農政の中での近代化農政への批判、高まる米価闘争への参加を通じて、権利意識が高まり、


各地での公害の発生とそれに対する批判、農薬汚染、環境汚染が科学万能主義への批判に繋がり、自然への回帰が叫ばれ、折からの地元の農民詩人である星寛治氏の「自然哲学思想」の影響や、また、一楽照雄氏(元全中専務)や築地文太郎氏が中心に


設立した「日本有機農業研究会」の影響を受けた青年団の仲間が「反近代化」というアンチテーゼのもとに、また、自分のつくった農産物に自分で値段をつけられない、市場システムから自立して、主体を確立しようという運動として始まったわけです。

 しかしながら、その技術が未確立なことや、生産が不安定なこともあって2年後にはその会員が19名にまで減り、運動が後退しました


このような中で、食の安全性や公害をテーマにした有吉佐和子の「複合汚染」朝日新聞に連載され、その中で「高畠町有機農業研究会」が紹介された事などにより「有機農業」への関心が高まり、消費者からの問い合わせと励ましが続き、産地と消費者の連携が前進し、今で言う「顔の見える」産直運動が確立されてきました。


 また、昭和56年〜57年の冷害の年でも化学肥料を使わない有機農業の田圃では、平年作を確保し、有機農業の優位性がマスコミ等で盛んに報道されたことにより有機農業が高畠の地に根付いていきました。

 しかしながら、有機農業は地域の中では「勇気農業」といわれ、地域の中では少数派で「変わり者」扱いされ、既存の団体との軋轢も生じました。その典型が農協等との「農薬の空中散布」の問題でした。


高畠町有機農業研究会」では当然、反対運動を取り組みましたが賛成派の既存の組織(農協や行政、共済組合)の理解が得られず、流通にしても、産直という当時としては「特殊」な流通形態だったために、農林事務所や農協と軋轢を生みました

 しかしながら、それを支えたのは、意識ある消費者の支援でした有機農産物の販売価格は当然、通常の商品流通の価格よりは高くなります。収量が少ないのと、過重な労働のためです。通常価格の倍程度の値段で産直されています。

 このような価格でも継続して購入してくれ、そして、必ず励ましの言葉を送ってくれる消費者の存在が彼らを励まし続けたのです

<写真は高畠町の渡部務さんの合鴨農法田圃です。3アールに約40羽の合鴨が除草に励んでいました。>